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雨が降っていた。
御厨リョウは傘も差さずに立っていた。濡れた髪から滴る雫が頬を伝い落ちるのも気にせず、彼はただ目の前の光景を凝視していた。
東京湾岸の工業地帯。廃棄された倉庫群の一角が、異様な光に包まれていた。青白い、まるで生き物のように脈動する光。それは人間の感覚器官が捉えるべきではない何かだった。空気が震え、リョウの鼓膜が痛んだ。
センチネルだ。
リョウの脳裏にその単語が浮かんだ瞬間、倉庫の壁が内側から弾け飛んだ。
中から現れたのは、一人の男だった。
黒いスーツに身を包んだ長身の男は、両手で頭を抱えてうずくまっていた。その周囲の空間が歪んでいた。いや、歪んでいるというより、存在そのものが世界から剥離しかけているように見えた。
これが能力の暴走――リョウは研究者として、その現象を何度も映像で見たことがあった。センチネルと呼ばれる超感覚能力者は、極度のストレス下で自己の能力をコントロールできなくなる。そして周囲の生命体を無差別に攻撃する。
男の周囲に、黒服の集団が展開していた。センチネル管理局の制圧部隊だ。彼らは特殊な装備を身につけているが、それでも男に近づくことができずにいた。
「氷堂センチネル! 応答してください!」
拡声器からの呼びかけに、男は反応しない。ただ苦しげに喘いでいる。
リョウは一歩、また一歩と、男に近づいていた。
自分でも理解できない衝動だった。研究者として、彼はガイドという存在について知識を持っていた。センチネルの能力暴走を鎮めることができる、特殊な資質を持つ人間。しかしリョウ自身がその資質を持つとは思っていなかった。むしろ、彼は人に触れられることを極度に嫌う性質だった。
それなのに。
それなのに、この男に触れなければならないという確信が、リョウの足を前に進ませていた。
「そこの民間人! 危険です、後退してください!」
制圧部隊の声が聞こえた。しかしリョウの耳には、別の音が届いていた。
男の、心臓の音。
いや、正確には心臓の音などリョウの耳に届くはずがない。それでも確かに、彼には聞こえていた。速すぎる鼓動。悲鳴のような、助けを求めるような、そんな音。
リョウは走り出していた。
制圧部隊の制止を振り切り、歪んだ空間の中へ。肌が焼けるような感覚があった。五感すべてが混乱し、視界が白く染まった。
それでもリョウは、男の肩に手を伸ばした。
触れた。
その瞬間、世界が静止した。
リョウの掌から、何かが流れ込んでいった。いや、流れ込んだのではない。流れ出したのだ。彼の中にあった何かが、まるで堰を切ったように男の中へと雪崩れ込んでいく。
同時に、男の中にある膨大な何かが、リョウの中に流入してきた。
情報の洪水。感覚の嵐。他者の記憶、他者の感情、他者の痛み。それらすべてが一瞬でリョウの意識を満たし、彼は声にならない悲鳴を上げた。
しかし不思議なことに、それは苦痛ではなかった。
むしろ、安堵に近い何かだった。
長い間失われていた何かが、ようやく元の場所に戻ってきたような。パズルの最後のピースが、あるべき場所にはまったような。
そんな感覚。
男が顔を上げた。
氷のように冷たく、それでいて燃えるように熱い瞳が、リョウを捉えた。漆黒の瞳。その奥底に、何か測り知れないものが渦巻いている。
「君は……」
男が呟いた。声は低く、しかし震えていた。
「君は、誰だ」
リョウは答えることができなかった。男の手が、リョウの手首を掴んでいた。その接触面から、まだ何かが流れ続けている。心地よくて、恐ろしくて、逃げ出したいのに離れたくなくて。
矛盾した感情が、リョウの中で渦巻いていた。
「離して」
リョウは囁いた。しかし男は離さなかった。それどころか、もう片方の手でリョウの頬に触れた。
その瞬間、リョウの視界が暗転した。
気を失う直前、彼は確かに聞いた。
「
男の、まるで祈りのような声を。
リョウが目を覚ましたとき、見知らぬ天井があった。
白い、無機質な天井。医療施設特有の消毒薬の匂いが鼻を突く。体を起こそうとして、右手首に鈍い痛みを感じた。
点滴が刺さっていた。
「お目覚めですか、御厨さん」
聞き慣れない声がして、リョウは首を巡らせた。ベッドの傍らに、白衣を着た中年の女性が立っていた。
「ここは……」
「センチネル管理局の医療施設です。あなたは三日間、眠っていました」
三日。
リョウの記憶は、あの倉庫での出来事で途切れていた。男に触れて、そして気を失った。
「あの、センチネルは……」
「氷堂カイトのことですか? 彼は無事です。あなたのおかげで、能力暴走から回復しました」
女性は柔らかく微笑んだが、その笑みには何か探るようなものが含まれていた。
「御厨さん、あなたは御自分がガイドの資質を持っていることを、ご存知でしたか?」
リョウは首を横に振った。
「知りませんでした。私は研究者で、センチネルとガイドの研究をしていましたが……自分がその資質を持つとは」
「そうですか」
女性は何かをタブレット端末に記録した。
「御厨さん、あなたのガイド適性は極めて高い数値を示しています。特に、氷堂カイトとの適合率は……前例のないレベルです」
リョウの胸に、嫌な予感が広がった。
「それは、どういう意味ですか」
「つまり」
女性は端末から顔を上げ、リョウを真っ直ぐに見た。
「あなたは、氷堂カイトの専属ガイドとして、センチネル管理局に登録されることになります」
「待ってください。私には研究の仕事があります。それに、ガイドになるつもりはありません」
「これは任意ではありません」
女性の声が、冷たくなった。
「センチネル保護法第十七条により、適合率が85%を超えるガイドは、該当センチネルの専属として契約する義務があります。拒否権はありません」
リョウは唇を噛んだ。法律のことは知っていた。研究者として、センチネル関連の法規はすべて頭に入れていた。しかしまさか、自分がその対象になるとは。
「適合率は……」
「
女性は淡々と告げた。
「これは測定開始以来、最高の数値です。御厨さん、あなたと氷堂カイトは、生物学的に完璧なペアなのです」
生物学的に。
その言葉が、リョウの胸に突き刺さった。
感情ではない。愛でもない。ただの、生物学的な相性。
それだけのことだ。
そう自分に言い聞かせながら、リョウは女性に尋ねた。
「契約の内容は?」
「月に一度、調整セッションを行っていただきます。氷堂カイトの能力を安定させるための、接触による調整です。一回のセッションは約一時間。それ以外の時間は、あなたの自由です」
月に一度、一時間。
それだけなら、まだ耐えられるかもしれない。
リョウは頷いた。拒否できないのなら、受け入れるしかない。
「分かりました」
「ありがとうございます」
女性は再び微笑んだ。しかしその笑みは、まるで狩人が獲物を捕らえたときのようだった。
「では、明日から正式に契約となります。初回の調整セッションは、明後日に設定されています」
女性が部屋を出て行った後、リョウは一人、天井を見つめていた。
あの男――氷堂カイト。
彼の瞳を思い出すたび、リョウの心臓が不規則に跳ねた。
触れたときの感覚。流れ込んできた膨大な何か。そしてあの、「見つけた」という言葉。
何を見つけたというのだ。
リョウは自分の右手を見つめた。カイトに触れた、この手を。
この手が、これから彼に触れ続けることになる。
月に一度。一時間。
それが、どれほどリョウを変えていくことになるのか、この時点では知る由もなかった。
それから六ヶ月が経った。 リョウとカイトは、バンコクの郊外に小さなアパートを借りて暮らしていた。 二人とも、偽名を使って生活していた。カイトは英語教師として、リョウは翻訳の仕事をしていた。 収入は多くなかった。しかし、二人には十分だった。 朝は一緒に起き、朝食を作り、仕事に出かける。 夜は一緒に夕食を食べ、映画を見たり本を読んだり、ただ抱き合っていたりする。 普通の、平凡な生活。 しかしリョウにとって、それは何よりも幸せな日々だった。「リョウ、買い物に行くぞ」 ある日曜日の朝、カイトが声をかけた。「はい、今行きます」 リョウは部屋を出て、カイトと手を繋いだ。 アパートの外に出ると、熱帯の太陽が照りつけていた。しかし、もう慣れた。 二人は市場に向かった。 色とりどりの果物、新鮮な魚、香辛料の匂い。タイの市場は、いつも活気に満ちていた。「今日は何を作る?」 カイトが尋ねた。「トムヤムクンにしましょう」 リョウは答えた。「あなたの好物ですから」「ありがとう」 カイトは微笑んだ。 二人は材料を買い、アパートに戻った。 そして、一緒に料理をした。 カイトが野菜を切り、リョウがスープを作る。 途中、カイトがリョウの腰を抱いた。「カイト、料理中ですよ」「分かってる」 カイトはリョウの首筋にキスをした。「でも、我慢できない」 リョウは笑った。 こんな日常が、こんなにも愛おしいとは。 かつては想像もできなかった。 夕食の後、二人はベランダに出た。 夕焼けが、空を染めていた。 リョウはカイトの肩に頭を預けた。「カイト」「何だ?」「幸せです」 リョウは呟
屋上での対峙から一週間が経った。 その間に、世界は大きく変わり始めていた。 リョウとカイトの映像は、瞬く間に世界中に拡散された。ソーシャルメディアでは、彼らを支持する声が圧倒的多数になった。「#FreedomToLove(愛する自由を)」というハッシュタグがトレンド入りした。世界中の人々が、リョウとカイトの物語に共感した。 そして、政治も動いた。 野党議員たちが、センチネル保護法の見直しを要求し始めた。与党内部でも、改正を求める声が上がった。 センチネル管理局は、世論の圧力に屈しつつあった。 しかし、リョウとカイトへの指名手配は、まだ解除されていなかった。 二人は、三島の手配した安全な場所――海沿いの古い民家に身を隠していた。「長くはもたないな」 カイトが言った。 二人は海を見ながら、並んで座っていた。波の音が、静かに響いていた。「どういう意味ですか?」「いずれ、センチネル管理局は俺たちを捕まえようとする」 カイトは説明した。「世論がどうであれ、法律が変わるまでは、俺たちは犯罪者だ」「でも、朝霧さんは撤退しました」「あれは、カメラがあったからだ」 カイトは首を横に振った。「次は、メディアのいない場所で襲ってくる」 リョウは不安を感じた。「なら、どうすれば……」「国外に逃げるしかない」 カイトは決断した。「センチネル保護法が施行されていない国に」「でも、それでは一生、日本に戻れません」「それでもいい」 カイトはリョウの手を取った。「君と一緒なら、どこでも生きていける」 リョウは考えた。 国を捨てる。家族を、友人を、すべてを捨てて、カイトと二人だけで生きていく。 それは、恐ろしいことだった。 しかし同時に、魅力的でもあった。
記事は、予想以上の反響を呼んだ。 翌朝、三島の記事はインターネット上で爆発的に拡散された。 『愛は罪か――ボンディングしたセンチネルとガイドの告白』 記事には、リョウとカイトのインタビューが詳細に掲載されていた。二人の写真も公開された。 ソーシャルメディアは、瞬く間にこの話題で溢れた。 賛否両論。 「彼らは何も悪くない。愛し合う権利は誰にでもある」 「いや、法律は法律だ。センチネルは国家の財産なのだから、管理されるべきだ」 「ボンディングの危険性を無視するな。一人が死ねば二人とも死ぬんだぞ」 「それでも、強制的に引き離すのは人権侵害だ」 議論は白熱した。 そして、センチネル管理局も動いた。「氷堂カイトと御厨リョウを、国家反逆罪で指名手配する」 局長の記者会見が、全国に放送された。「彼らは、センチネル保護法に違反しただけでなく、機密情報を漏洩した。これは、重大な犯罪である」 指名手配。 リョウとカイトは、正式に犯罪者とされた。「予想通りだな」 カイトは冷静に言った。 二人は三島の手配した隠れ家――廃墟となったホテルの一室にいた。「でも、世論は私たちに同情的です」 リョウはノートパソコンの画面を見ていた。「ソーシャルメディアでは、私たちを支持する声が多数です」「それでも、法律は変わらない」 カイトが窓の外を見た。「世論がどうであれ、俺たちは指名手配犯だ。捕まれば、処刑される」 リョウは唇を噛んだ。 記事の公表は、諸刃の剣だった。世論は味方についたが、同時に居場所も知られてしまった。 その時、カイトの表情が変わった。「来る」「え?」「執行部隊だ」 カイトは立ち上がった。「朝霧も、一緒だ」 リョウは窓から外を覗いた。
テレポーテーションの感覚は、溺れるようだった。 リョウの意識は引き伸ばされ、圧縮され、そして再構成された。吐き気と眩暈が同時に襲ってきて、リョウは気を失いかけた。 しかしカイトの腕が、しっかりとリョウを抱きしめていた。 その温もりだけが、リョウを現実に繋ぎ止めていた。 どれくらいの時間が経ったのか分からない。 気がつくと、リョウは固い地面の上に倒れていた。「リョウ」 カイトの声が聞こえた。「大丈夫か」「ええ……なんとか」 リョウは身体を起こし、周囲を見回した。 そこは、見知らぬ場所だった。 森。鬱蒼とした木々に囲まれた、人里離れた場所。空気が冷たく、澄んでいた。「ここは、どこですか?」「北海道だ」 カイトが答えた。「山奥の、誰も来ない場所」 北海道。東京から、千キロ以上離れた場所。「そんなに遠くまで……」「限界だった」 カイトは息を切らしていた。額に汗が滲んでいた。「これ以上遠くには、飛べない」 リョウはカイトの身体を支えた。カイトの身体が、熱を持っていた。「能力を使いすぎましたね」「ああ……でも、これで少しは時間が稼げる」 カイトは木に背中を預けた。「朝霧が追跡してきても、ここまで来るには時間がかかる」「でも、いずれは見つかる」「そうだ」 カイトは認めた。「俺の能力は、使えば使うほど追跡が容易になる。逃げれば逃げるほど、痕跡を残してしまう」 リョウは考えた。 このままでは、いずれ捕まる。時間の問題でしかない。「なら……」「なら?」「戦いましょう」 リョウは言い切った。
気がつくと、リョウは見知らぬ場所にいた。 古い日本家屋。畳の部屋。障子から差し込む柔らかな光。「ここは……」「俺の、隠れ家だ」 カイトの声がして、リョウは振り向いた。カイトは窓の外を見ていた。「山の中。最寄りの町まで車で一時間。センチネル管理局も、ここの存在は知らない」 リョウは身体を起こした。全身の力が抜けていたが、カイトが近くにいるおかげで症状は治まっていた。「どうやって、こんな場所を……」「三年前、任務で訪れた時に見つけた」 カイトは振り返った。「いつか必要になるかもしれないと思って、秘密にしてきた」「いつか……って、まさかこんな日が来ると?」「ああ」 カイトは頷いた。「君と出会った時から、こうなることは分かっていた」 リョウは息を呑んだ。「つまり、あなたは最初から……」「逃亡することを、視野に入れていた」 カイトは認めた。「君をボンディングに導き、そして一緒に逃げる。それが、俺の計画だった」 リョウは何も言えなかった。 すべてが、カイトの計算の内だった。出会いも、調整の頻度の増加も、ボンディングへの誘導も。「怒っているか?」 カイトが尋ねた。「俺は君を騙していた。君の自由意志を奪い、俺に依存させた」 リョウは考えた。 怒るべきだろうか。自分は操られていたのだと、憤るべきだろうか。 しかし。「怒れません」 リョウは答えた。「なぜなら、私も同じことを望んでいたから」 カイトの目が、わずかに見開かれた。「最初は違いました」 リョウは続けた。「最初は、確かにあなたに触れることを嫌がっていました。でも、いつか
リョウは走った。 雨に打たれながら、息も絶え絶えに、ただ前へ。背後からは執行部隊の足音とサイレンの音が追いかけてくる。 スマートフォンがポケットの中で震えた。カイトからのメッセージだ。 『座標を送る。そこで待て』 画面に表示された地図を見て、リョウは方向を変えた。湾岸地区。あの日、カイトと初めて出会った場所の近くだ。 足が重かった。禁断症状による脱力感が、全身を支配している。カイトと離れて五日。リョウの身体は既に、限界を超えていた。 それでも走った。 廃ビルの影に身を隠し、追跡者が過ぎるのを待った。雨音に紛れて、彼らの無線のやり取りが聞こえてくる。「対象を見失った」「周辺を封鎖しろ。逃がすな」 リョウは歯を食いしばった。 カイトの指定した座標は、ここから二キロ先。たった二キロ。しかし今のリョウには、途方もなく遠い距離だった。 携帯が再び震えた。今度は着信。カイトだ。「リョウ」「カイト……」 リョウの声は、掠れていた。「動けません。身体が……」「分かってる」 カイトの声が、苦しげに響いた。「俺もだ。任務中、何度も能力が暴走した。君なしでは、もう制御できない」「私も……あなたなしでは」 リョウは壁に背中を預けた。立っているのがやっとだった。「五日間、地獄でした。頭が割れるように痛くて、吐き気が止まらなくて……」「すまない」 カイトの声が、震えた。「俺のせいだ。俺が君をこんな状態にした」「違います」 リョウは否定した。「これは、私たち二人の選択です。誰のせいでもありません」 遠くでサイレンの音が近づいてきた。リョウは息を潜めた。「カイト、あとどれくらいで…&hellip